2005.12.01

「YS-11」が奏でる、ものがたり

(62)

~日本のエアラインの栄枯盛衰?~


YS-11は、戦後初の国産旅客機で、レシプロとジェットの中間とも言われるターボプロップエンジン搭載ということで、当時華々しくデビューしたものでした。
 日本航空は、福岡=プサン線にそれまで就航させていたDC-6B型機に代え、1969年(昭44)4月1日に当時の日本国内航空から乗員つきでリースして、YS-11A型機(JA8717、「あそ」号)として、大阪=福岡=プサン線を、週3往復で運航しました。
 しかし、翌年4月には、B727型機へと機種変更を行いました。当時の国内幹線は、ANAのビッカースバイカウント機に対抗の機種として既にジェットの幕開けのスターとして、ボーイング社の最新鋭「B-727」が主役の座を待っていたわけですから、「YS-11」誕生の時代が不運であったともいえるでしょう。
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こうした、時代背景で、日本航空では、実質的に誰も(運航・客室乗務員)乗務していないわけです。
この飛行機がバリバリに活躍していた頃、羽田空港は、国際線を含め「日本国の空の玄関」として機能し、君臨していた時代でもありました。

当時、私は、20代。羽田空港内にある日本航空オペレーションセンター(略してO/Cと言います)を基地として
乗務にあたっておりました。クルーとは、乗務するフライトの日、正確には国際線の場合で、出発時刻(ディパーチャータイム)の1時間45分前にに出社、海外より帰着時もこのオペセンで乗務後のまとめ(ポーストフライトブリーフィング)後は、直ちに帰宅します。従ってこのクルーと言う仕事は、「俗に空中職と言われています。)固定的に地上業務をすることはほぼありません。しかし、私は、たまたまこの時代に労働組合の役員も務めておりまして、「飛びたくとも、責任上、専従勤務をしなければならない、という環境にありました。思い切り世界を飛び回りたい熱い想いの若者にとってはつらい毎日でもありましたが、逆に勤務の傍らとはいえ、空港内にある会社の窓からじっと飛行機を見つめる時間など、その後の人生にも再びめぐってきていないことを考えると、縁に恵まれたこということもできるのではないのでしょうか。(貴重ですねぇ今から思いますと・・。)、。特に「YS機」との縁と出会いです。

さて、その縁とは、「クルーとしてこのYS機材には、乗務したことはない。」とはいっても、いわゆるハンガー(格納
庫)に隣接した労働組合事務所の窓越しに、YSの勇姿を絶えず見ていたこと、ターボプロップ特有の「キィーン」という音、エンジン始動時からタクシングして誘導路に入っていくまでの「音!」は忘れられないこと、好むと好まざるにかかわらず、しばらくは、会話を中断して待たねばならなかったほどでしたので。その折は、騒音として単に「うるさい!」としか感じなかったことも事実です。
なのに、今や、「貴重な記憶のレコード」となっているような気がいたしします。

この「YS-11」の所有会社は、当時の日本国内航空(JDA:JAPAN DOMESTIC AIRELINES)から、東亜航空と日本国内航空が合併して、東亜国内航空(TDA)となり、更に名称変更で日本エアシステム(JAS)となり、そのJAS(日本エアシステム)とJALが合併した今、JALとなったわけです。正確には活躍中の4機のYSは、JALグループのJAC(日本エアコミューター)で無事退役を迎えることになる訳です。
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この「YS-11」の誕生デビューから退役までのヒストリーは、そのまま、日本の国内民間航空の歴史というか、「栄枯盛衰の物語」を奏でているようでもあり、一種複雑な心境にさせられます。

なお、JACでは、「ありがとう日本の翼 YS-11」という塗装をしたYSを飛ばした、退役キャンペーンを行っているようです。「惜しまれながら去る・・。」人間もかくありたいとも感じております。
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このコラムは、2003、9月に上梓したものを加筆修正致しました。

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